裸のパンジー ヌーディスト村に行った話

裸になるってどんな気持ち? ファッションを仕事にする20代エディターが、服なんて着ない!という村に行ってみた話。

ヌーディスト村日記⓪裸になろうと決めたわけ

 昔、就活の面接の直前に、私の緊張をほぐすためにアメリカ人の友人がこんなジョークを教えてくれた。曰く、「ヌーディストビーチで盲目の男性を見つける方法は?」「答えは、勃起していない人を探せばいい」。ーなんともくだらない話なのだけど、今回ここキャプ・ダグドに来ることに決めたとき、なぜかそのくだりを思い出した。それはヌーディストという言葉への偏見がたっぷり入ったクイズだったが、この夏、私は、ヌーディストたちのそういったイメージ通りの姿、そして予想外の姿の両方を、自分自身で見に行くことにした。

 

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 裸で過ごす嗜好があるわけではない。夏は寝る時も長ズボンのパジャマだし、温泉は大好きだけど混浴には抵抗がある。だけど昔から興味をそそられてきた。人は、なぜ服を着るのだろう?という問いだ。「おやヌーディストの話では?」と思われるかもしれないが、私にとって、服を着ることの不思議はそのまま、着ないことの不思議とセットになっている。もともと人が服を着るのには、機能的な意味がもちろん大きい。だけどそれ以上に、地位や既婚・未婚を示したりするために、装いは発展してきた。


 ファッションエディターとして東京砂漠で働く私の毎日は、「なぜ服を、しかもこの服を着るのか」という問題意識との軽やかな格闘だ。今日は撮影だから、スニーカーでも今をときめくブランドのもので動きやすくかつお洒落した感を出そう、とか、初めての相手と打ち合わせだから、ピリッとした白シャツできちんとしていこう、とか。そこでは自己表現もマウンティングも、着装という大前提の中で踊っている。そうして「着ない」という選択肢にはアンタッチのまま、東京の日々は過ぎる。そこへ、「でも」と夏が私に呼びかけた。

 服を着ないということと、裸であること、裸になること。イコールのようできっと少し違う。しばしば裸族と呼ばれるようなアフリカのある部族の女性は、唇につけた大きなピアスを外すよう人類学者に頼まれてひどく嫌がったという。「これを外すのは夫の前だけ」と。おっぱい丸出しで言うのだ。そう、羞恥心は環境や文化にかたち作られるものなのだと、この話を聞いてつくづく思った。でも、果たして私はヌーディスト村で抵抗なく裸になれるのだろうか?裸の男性と平然とすれ違ったりできるのだろうか。

 服を着るということの、絶大な魔力を私は知っている。NYのファッション写真家・ビル・カニンガムが「洋服は毎日を乗り切る鎧だ」と言っていたけれど、本当に本当に、それでしかない。では、鎧を意図的に外すと人はどうなるのだろうか? それは心の平和への引導となるのだろうか?

 そんな疑問とともに、航空券購入のボタンを押した。翌朝ルームメイトのフランス人に「キャプ・ダグドに行くよ」と言ったら、「オーウ!とっても有名な場所だね!でも、セックスにオープンな人も多いと聞くから気をつけて」とナイスな助言。「ヌーディストビーチに行ったことある人は周りにいない?」と聞いたら、「会ったことない、いても、きっと人に言わないね(笑)」とのこと。うむ。なんとなく、ヌーディスト大国フランスでも、それがどのような一般イメージを持たれているのかわかってきたぞ。離陸準備が整った。