裸のパンジー ヌーディスト村に行った話

裸になるってどんな気持ち? ファッションを仕事にする20代エディターが、服なんて着ない!という村に行ってみた話。

ヌーディスト村日記②裸という制服

ここは「村」なのか?

 「ヴィラージュ・ナチュリスト」を直訳すると、「ナチュリスト村」となる。この広大なエリアには、確かにいくつものマンション(もしくは団地)的建物があるし、郵便局もスーパーもレストランも、クラブ(踊るほほう)もある。私もなんとなく、人々が裸で生活する場所というイメージを抱いていた。ただ、やはり予想は予想にすぎなくて、現実はいつも現地でしか手に入らない。「人が裸で生活している」という私のイメージは、半分あたりで、半分絵空事だった。

 

誤解を恐れずに言うと、ヴィラージュ・ナチュリストは「ただの」広いビーチリゾートだ。人々は、裸になるということ以前に、まず美しい海と砂浜でのバカンスを享受している。レストランもスーパーも、ビーチの延長の空間だ。海の家がたくさんあるイメージ。海の家に行くのにわざわざ水着から着替えることは少ない。そんな感覚で、浜辺以外でもヌードが続く、というのが、今の私に一番しっくり来る言い方だ。ビーチに行くにはまだ暑いから、先にカフェでのんびりランチ。ひと泳ぎして部屋に帰るから、その前にスーパーで買い物、という風に。

 この空間の雰囲気には、街や村よりも、大学のキャンパスが近いと思う。似たようなちょっと古い建物がいくつも並び、売店が何種類かあり、きれいな緑が平和に植わって、自転車で移動する人だっている。そこは街よりは小さいけど、なんとなく独特の自治的な空気がある。私がヴィラージュ・ナチュリストを歩いていて思い出したのは、東大の本郷キャンパスや、アメリカの総合大学の敷地だった。、同じような人が集まっている場所特有のなだらかなムードも、ここには感じる。

 

「裸を着用する」権利

 そしてこのキャンパス内では、裸という制服が存在する。学生は裸で、職員は服を着ている(その服も、学風に合った露出度ではある)。ただこの制服はまるで標準服のようで、着用しなくても咎められないし、アレンジも自由なのだ。ヌーディスト村に関する私の中の一つの大きな誤解が、「みんな、ずっと、真っ裸でいる」というものだった。そう、意外とみんな服を着ている!というのが初日の感想だった。一歩足をふみいれたら、服を着ていることが恥ずかしい、普段とあべこべの世界があると思っていたけど、それは結局外界の勝手な期待だ。さっき、ここはビーチの延長だと言ったけれど、本当にそうで、ビーチにいるからといってずっと水着姿でいるとも限らないのと同じだ。パラオのような「裸のおしゃれ」は男女ともに盛んだし、女性は特に、透け感強めではあるが、さらっとしたワンピースを素肌にまとって歩いている人が多い。「一糸まとわぬ」姿は、ビーチではほとんどだけど、それ以外の場所では半分くらいになった気がする。また、みんな帽子やアクセサリー、サングラスを付けている。ここには実用的な意味も大きいだろうけど(とにかく日差しが強い!)。

 裸じゃなくてもいい。でも、裸になれるということは、大きな大きな要素だ。それはまさに、ヌーディストビーチが与えてくれる特権で、私たちはこの制服の着用に関してもそれぞれに完全な自治がある。「裸」を着用する、とは変な言い方だけど、ヌーディストにおけるヌードを考えるなら、裸すら一つの衣装として捉える方がそぐう。つまりそれは、とても意図的に提示されるものであって、程度もアレンジもその人自身に任されている装いの一種類なのだ。
 私たちはしばしば、裸を自然状態とみなしがちで、実際彼らの自称も「ナチュリスト」なのだから、服を脱いでありのままの自分と体で楽しむ、というコンセプトがあることは確かだろう。だけど、それは「生まれたままの姿」とは少し違う。

裸とは何か? ヌーディストたちの「裸のおしゃれ」についても追って報告していきたい。

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素っ裸で自転車に乗るおばさま。股が気になる・・・誰かと共用の自転車じゃないよね、などと心配してしまうけど、この人たちはお股についてもっとフラットに考えているのだろう・・・。