裸のパンジー ヌーディスト村に行った話

裸になるってどんな気持ち? ファッションを仕事にする20代エディターが、服なんて着ない!という村に行ってみた話。

ヌーディスト村日記③裸と私と羞恥心

みんなで脱げば怖くない? 

 前回はちょっと観念的な話をしたので、よりつぶさな報告をしようと思う。

 そもそもの私がヌーディスト村に来ようと思ったのは、服を着ないという、人間社会の普段の取り決めから大きく外れた状態が、どのように集団的になされているのかということと、人の羞恥心がどんな風に基準値のバーを変えていくか、ということを知りたかったからだ。もちろん、そもそもなぜヌーディスト(もしくはナチュリスト)はヌーディストになるのかという非常に根本的な問いも重要性だ。ただ深く基本的な動機こそ、時に探るのが難しい。というわけで、まずは観察、観察・・・。

 

 ビーチにて晴れて裸になった私は、意外なほど、恥ずかしさはほぼ全く感じなかった。だって、周りの人みんな裸なのだ。恥部を晒しているのだ。どちらかといえば、自分の体を見せる恥じらいよりも、見ず知らずの男性の局部がありありとみえることのほうが、私をたじろがせた。見せる照れと見る照れ。照れには二種類あるとしたら、後者のほうがより感じられた。

 

 地中海の波は穏やかで、浜辺の砂も太陽に熱せられてはいるものの、ふくよかで気持ちがいい。空は抜けるように青くて、時折カモメが飛び、広告をつけた小さな飛行機がパラパラと音を立てて飛んでいく。ビーチボールで遊ぶ人やBBQなどをする人は皆無で、右も左もただただ寝そべって陽光を享受している。私たちが最初に陣取った浜辺はとても静かで、これは後から聞いたのだが、ナチュリストビーチは自然にエリア分けされていて、家族連れもいるゾーンと、より性的なリベルタン(自由恋愛主義的な)のゾーンとが、緩やかにしかし明白に分かれているのだという。初日、私たちはそうと知らずに家族連れゾーンの端の方に寝そべっていたので、ヌーディストビーチに対する印象はそこまで激しくはなかった。むしろ、とても大人で穏やかなものだ、と思った。 

 ほかほかに温められた砂の上にビーチにタオルを敷き、寝そべって本を読む。私のすぐ右側には、40代らしき男性が一人で日光浴をしている。前(海側)にはカップル、後ろにもカップルがパラソルを差しデッキチェアに寝っ転がっている。
 どんな人たちが来ているのか。見たところ、カップルが一番多く、次に小さい子供がいる家族連れや、カップル複数のグループ、そして男性一人もわりといた。女性一人はもちろん、女性だけのグループはほとんど見なかった。裸を見せ合うことが目的ではないにしろ、ある程度以上に心を許した間柄でないと連れ立っては来ないということか。が、思えばそもそも欧米人がバカンスを過ごすのならカップルや家族が多いのだろう。とはいえ、ティーンネイジャーのいる家族はほとんどいなかった。そして年代でいうと、40代以上が7割という印象だ。若者もいるにはいるが、大学生みたいな人たちはいなくて、30歳前後が多い模様。私はといえば、親しくしている男性に付いて来てもらっていたのだが、もし一人で来ていたらただでさえアジア人で浮くのに、女一人ではとんでもなく浮いて、かつ危険だったろうと思う。(なぜ危険なのかは後ほど・・・。)

 しばらくのんびりしたあと、キラキラと光る海へ入りにいく。水はひんやりとしていて、全身浸かるには勇気がいった。ただとてもとても透き通っていて、魚が泳ぐ姿も美しい。けれど海に入っている人は皆、泳ぐでもなく遊ぶでもなく、ただ一人で静かに歩いている。それぞれがバラバラの方向にゆっくり歩き、ぼーっとした目で前を見つめている。それはとても平和で、同時に不思議な光景だった。穏やかすぎで怪しいくらい、人々の様子が凪なのだ。
 海ではしゃぐというアイデアはそこには存在せず、大人たちがただただ光と水の冷たさを全身で受け止めている。そう、裸で。

恥ずかしかった時
 そうして浜辺で過ごしていて否が応でも気づいたのは、下の毛の処理である。みんな、ツルツルなのだ。男も女もみーんな。先に、裸になることは恥ずかしくなかったと書いたが、告白しよう。ヴィラージュ・ナチュリストに来て初めて羞恥心を持ったのは、この毛問題に気づいた時だった。
 波打際を歩いていると、日焼けをせんと海に足を向けて寝そべる女性たちの股が一様に眺められてしまうわけだが、ずらりと並ぶ“世界の起源”は全て毛なしだ。彼ら(彼女たち)の裸は、手入れされた裸だった。もちろん私も日本の常識の範囲内で手入れはしていて、その手入れの到達点が元々彼らと違ったというだけだ。けれど、多数がAという基準を採っていて、私たちが採っている基準Bが、A側の人たちから見たら未達の状態である場合・・・やってない、と思われるのではないか、おかしいと思われるのではないかという、日本では身に覚えのありすぎる類の不安が生まれる。

 あとはどんな時に恥ずかしさを感じたか?
 入ったレストランで、おそらく到着したばかりの家族の、服を着た小さな男の子たちと目が合った時。幼い異性に裸を見られる恥ずかしさは、銭湯で若い母親が男の子を連れて入っている時の気まずさと似ていた。私は悪くない、彼らこそイレギュラーなのに、でもなぜかいたたまれないという、あの感覚。
 それから、カフェで席が隣になったのをきっかけに仲良くなった50代のフランス人カップルの前で服を着ている時。そのカップルは本当に親切で、自分たちが借りている部屋に私たちを招き入れてくれて、シャワーを貸してくれディナーやクラブも一緒に連れていってくれたのだ。詳細は後述するけれど、夜の外出ではきちんと着衣のおしゃれをして出かけるのがヴィラージュでは通例らしく、私たちもそれに習ってシャワー後に洋服を着ることにした。ただ、カップル特に男性の方がいる空間でパンツを履くのなんかが結構恥ずかしくて、裸も見せている間柄なのにこれはなんだ、と自問する。服を脱ぐ時より着る時の方が恥ずかしいというのは滑稽で、ヴィラージュがやはりある意味では鏡の中のあべこべの世界なのだ、と感じた。
 

 裸でいるのは恥ずかしくない。ただ、着装が要素として絡んでくると、どちらも自分のありうる状態ではあるのだが、そこに摩擦が起き恥ずかしさとなって現れてくるのだという気がした。

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