裸のパンジー ヌーディスト村に行った話

裸になるってどんな気持ち? ファッションを仕事にする20代エディターが、服なんて着ない!という村に行ってみた話。

ヌーディスト村日記①どきどきファーストステップ

ヌーディストが集う街

 やってきたのは南仏。キャプ・アグド(Cap d'Agde)という街には、世界でも指折りのヌーディストビーチがある。そしてビーチを含む広いエリアは、ホテルやレジデンス、スーパーマーケットやレストランなどを揃え、まるでディズニーランドのように、料金を払って入場するのである(!)。その名も、「ヴィラージュ・ナチュリスト(Village Naturiste)」。「ナチュラリスト村」という意味で、この単語がそのままバス停の名前にもなっている。しかも終点なので、街を走るバスの掲示板にはしばしば「ナチュラリスト村行き」と書かれている。ナチュリストとは、本来の語義は「自然主義者」的なものなのだが(natureという単語は英語のnatureとほぼ同じ)、どうやら、ヌーディストが自称として好む語のようで、「ヌーディスト」と指す内容は一緒だ。

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ナチュリストの楽園に入場

 さてヴィラージュ・ナチュリストへの入場料は、車で来ていなければ1日8ユーロ。「4日〜7日出入り自由になるチケットは45ユーロ」と、テーマパークもびっくりなしっかり料金体制だ。一見すると小さな観光案内所のような場所で、お姉さん(服着てる)にお金を払い、歩いてすぐのところにある通用口のような粗末な鉄の扉の前でおじさん(服着てる)にチケットを渡し、中に入れてもらう。ギイ〜・・・。

 さぁ、もうみんな裸なのかしら・・・?!とドキドキするも、眼前に広がるのは駐車場。ちらほら歩いている人もいるなと思っても、服を着ている。

 数年前一番初めにヌーディストに興味を持って調べた時、ヌーディスト村なる場所では住んでいる(滞在している)人はもちろん、働いている人もヌードだ、という記述を見た気がする。なので、働いている人も真っ裸で、お客と差がない装いなのか、という期待を抱いていた。だから、通用口風扉から入ってしばらくして郵便局を見つけた時、つい用もないのにドアを開けてみたのだ。すると、郵便局の制服と、シワがよったお尻が目に入った。職員=制服着用、お客=裸。おじさん(おじいさん?)は後ろ姿しか見えなかったけれど、初心者の私はゆるんだお尻と、股の向こうにぶら下がる何かを認識して2秒で扉を閉めてしまった。

 


いつどこで脱ぐのか

 そうしてなんとなく浜辺を目指しながら歩きつ思い至る。「あれ、どこで着替えれば・・いや、服を脱げばいいんだろう?」。そう、本来着替えは、あられもない姿を見せちゃいけないから人目につかない場所でやるけれど、裸を見せていい場所ならば、どこで脱いでもいいのでは? いやそれにしてもTPOがわからない! こんなに脱ぐぞと気張って来たのに、どうしたものか。と思いながら周りを見ていると、車で来ている人(圧倒的多数)は、サーファーが車の中でウェットスーツを着込むように、車で着替え(脱ぎ)を済ませているようだった。ビーチカルチャーが村を支配している・・・。

 結局、トイレで下着だけ外し、ビーチで上に着ていたワンピースを脱ぐという、段階的脱衣を採った。南仏の太陽の真下で、レーヨン100%のぺらぺらのワンピースをガバッと脱ぐ。私は裸だ。


露出度の変化

 段階的、と言えば、バカンスシーズンにフランスに来た時点でもう脱衣は始まっていたのかもしれないとも思った。キャプ・ダグドに着いた時、フルレングスのデニムを履いているのなんて私だけ。少女もおばちゃんもおばあちゃんも腕を出して足を出している場所で、東京では重ね着してしまうようなワンピースを一枚で着る。それがふさわしいと思わせる、土地柄の朗らかな圧力があった。

 

 

ヌーディスト村日記⓪裸になろうと決めたわけ

 昔、就活の面接の直前に、私の緊張をほぐすためにアメリカ人の友人がこんなジョークを教えてくれた。曰く、「ヌーディストビーチで盲目の男性を見つける方法は?」「答えは、勃起していない人を探せばいい」。ーなんともくだらない話なのだけど、今回ここキャプ・ダグドに来ることに決めたとき、なぜかそのくだりを思い出した。それはヌーディストという言葉への偏見がたっぷり入ったクイズだったが、この夏、私は、ヌーディストたちのそういったイメージ通りの姿、そして予想外の姿の両方を、自分自身で見に行くことにした。

 

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 裸で過ごす嗜好があるわけではない。夏は寝る時も長ズボンのパジャマだし、温泉は大好きだけど混浴には抵抗がある。だけど昔から興味をそそられてきた。人は、なぜ服を着るのだろう?という問いだ。「おやヌーディストの話では?」と思われるかもしれないが、私にとって、服を着ることの不思議はそのまま、着ないことの不思議とセットになっている。もともと人が服を着るのには、機能的な意味がもちろん大きい。だけどそれ以上に、地位や既婚・未婚を示したりするために、装いは発展してきた。


 ファッションエディターとして東京砂漠で働く私の毎日は、「なぜ服を、しかもこの服を着るのか」という問題意識との軽やかな格闘だ。今日は撮影だから、スニーカーでも今をときめくブランドのもので動きやすくかつお洒落した感を出そう、とか、初めての相手と打ち合わせだから、ピリッとした白シャツできちんとしていこう、とか。そこでは自己表現もマウンティングも、着装という大前提の中で踊っている。そうして「着ない」という選択肢にはアンタッチのまま、東京の日々は過ぎる。そこへ、「でも」と夏が私に呼びかけた。

 服を着ないということと、裸であること、裸になること。イコールのようできっと少し違う。しばしば裸族と呼ばれるようなアフリカのある部族の女性は、唇につけた大きなピアスを外すよう人類学者に頼まれてひどく嫌がったという。「これを外すのは夫の前だけ」と。おっぱい丸出しで言うのだ。そう、羞恥心は環境や文化にかたち作られるものなのだと、この話を聞いてつくづく思った。でも、果たして私はヌーディスト村で抵抗なく裸になれるのだろうか?裸の男性と平然とすれ違ったりできるのだろうか。

 服を着るということの、絶大な魔力を私は知っている。NYのファッション写真家・ビル・カニンガムが「洋服は毎日を乗り切る鎧だ」と言っていたけれど、本当に本当に、それでしかない。では、鎧を意図的に外すと人はどうなるのだろうか? それは心の平和への引導となるのだろうか?

 そんな疑問とともに、航空券購入のボタンを押した。翌朝ルームメイトのフランス人に「キャプ・ダグドに行くよ」と言ったら、「オーウ!とっても有名な場所だね!でも、セックスにオープンな人も多いと聞くから気をつけて」とナイスな助言。「ヌーディストビーチに行ったことある人は周りにいない?」と聞いたら、「会ったことない、いても、きっと人に言わないね(笑)」とのこと。うむ。なんとなく、ヌーディスト大国フランスでも、それがどのような一般イメージを持たれているのかわかってきたぞ。離陸準備が整った。