裸のパンジー ヌーディスト村に行った話

裸になるってどんな気持ち? ファッションを仕事にする20代エディターが、服なんて着ない!という村に行ってみた話。

ヌーディスト村日記⑦ナチュリストの人々-2

●授乳もその場ですぐできる!(ママナチュリスト)

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 プール付きのレストランがいくつかあって、その一つでランチをしていた時の話。隣の席に着たのは、共にやや険し目美フェイスの30代の夫婦と、3,4歳の男の子と赤ちゃんの4人家族。夫婦同士はドイツか北欧っぽい言葉でしゃべっていたけど、子供達にはフランス語で話しかけていたので、一家は今フランスに住んでいるのだろうと思った。
さて赤ちゃんはベビーカーに乗せて来られていたけれど、食事の時はママが抱っこ。お兄ちゃんがプールに入りたがるので、パパとお兄ちゃんはプールへ。赤ちゃんをあやしながら食事を進めるママ(薄い金髪に険し目顔の美人)。すると、赤ちゃんがぐずり始めた・・・!

すると、彼女は赤ちゃんを腕に抱き上げてそのままストレートにおっぱいをくわえさせた。

普段、街中だったら、哺乳瓶を与えるなり授乳室を探すなりするだろうシーン。だだここではおっぱいと赤ん坊を隔てるものは文字通り何もない。ためらいも何もなく、ぐずり始めて数秒で授乳が開始される様を見て、感動してしまった。

私は「裸」が原始的だとは思っていないけれど、この光景はある意味で本当にプリミティブで、人間の根源的な、それでいて現代では目にすることのなくなったものなのかもしれないと思った。

おっぱいをごくごくさせたら、右胸から左胸にチェンジさせるのも実に簡単。

もしかして、ナチュリスト村はママに優しい?!

 

●日焼けのあとを塗りつぶしたい女子

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非ナチュリストが認めるナチュリストの利点は、綺麗に日焼けできることだったりする。
そしてもちろん全てのナチュリストが「私は裸じゃないとプールも海も行かない!」と誓いを立てているはずもなく、よそで夏を堪能してからヴィラージュ・ナチュリストに来ている人もいる。浜辺では時たま、水着のあとがこれでもかというほどくっきり残った人を見た。彼女たちは太陽を重ね塗りするように、真っ白な水着部分を空にかざしていた。

ヌーディスト村日記⑥ここは“自由“なビーチ

ヌードの人はセックス好きか

 ヌーディストキャンプかビーチに行こうと考える私に、同居人のクロエが言った言葉。「フリーセックスみたいな、オープンなカルチャーがあると思うから気をつけて」。

ヌーディスト」という言葉から、エロや奔放な性行動を想像する人は、フランス以外でも少なくないだろう。私はといえば、性的なこと以外に最初から関心が行っていたのであまりよく考えていなかった、というのが正直なところ。ただ、クロエが言ってくれたことはキャプ・ダクドに着いてからもずっと気になっていた。エロいことしてる人、たくさんいるんだろうか、と。

 

 到着後最初期の印象は、「なんだ、全くもって平和じゃないか」。

 私たちが初日に陣取った浜辺は、家族連れもいる、穏やかな場所だった。時折子供の声が聞こえるくらいで、あとは大人たちが、ただのんびりと時間がすぎることを贅沢に味わっているような、そんな空間だった。そりゃあ、みんな裸だし、不思議な感じは大いにするのだけど、その不思議さが靄のように視界を覆って、頭の中もふわっとしてくる心地。

 一つ穏やかでなかったのは、隣に一人で寝そべっている男性のペニスの根元にあのシルバーリングが付いていたこと。性器を常時勃起しているように見せるというアイテムを見たのはこの時が初めてで、なんのためのものか気になって仕方なかったのだ。

 と、それは置いておいて、とにかくそのエリアがあまりにユートピアンだったので、私は簡単にクロエの助言を忘れそうだった。ビーチの端まで歩く散策に出るまでは。

 

海の中に集う人々の謎

 キャプ・ダグドのヴィラージュ・ナチュリストのビーチは、全長2kmほどある。透き通ったブルーが優しい波を寄せてくる、美しい景色だ。なのだが、散歩がてら波打ち際を歩いていると、だんだん人々の様子が変わっていく。最初に“それ“に気づいた時は、単に混んでいるのだと思った。普通のビーチでも、なんとなく人口が集中することはあるじゃないか。ただ、”それ“は違った。なんとなくの集中ではなかった。

 海の中に、20人以上の人だかりができている。いびつな人の輪がいくつも重なったようになって、みんな内側を向いている。なんだろう? 近づいて行くのは少し怖い気がした。目を凝らして見てみると、何か手元を動かしているようなのだが、特に何もしていないようにも見える。その怪しげなサークルの外には、人が散在していてゆっくり波間を歩いている。ほとんど男性だ。ふと、そのなかで一組の男女が抱き合っているのが見えた。そこでやっと「あれ・・・?」と感づいたのだ。

 とはいえ何をやっているかは全然判別できず、男性ばかりのところに突っ込む勇気もなく・・・。じーっとその謎サークルを見ながら歩を進めた。途中でアイスクリームとビールを売っているワゴンがあったので、よし!と思ってビール売りのおじさんに尋ねてみた。(バドワイザーを買いながら!)

「あの、海の中の人たちは何をしているの・・・?」

「あぁあれね」

いかにも「こいつ新入りだな」という調子でニヤッとする。

「あれ、真ん中にカップルがいるんだよ。そのカップルがセックスしていて、それをみんな囲んでいるのさ」

 それを聞いてからもう一度サークルの方に目をやる。海の中で抱き合っていた男女は、どうやら水中で忙しく腰を動かしている。内側を向いて円を作っている男性たちは、黙々と自慰行為に励んでいるのだと、わかった。

 集団的オナニー。これは、実はこの浜辺のあちこちで行われていることだった。

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リベルタンというセグメント

 ここでもう一度ミリアムとリシャールの言を引こう。二人に、なぜこのヴィラージュ・ナチュリストに来たのかと尋ねたら、「ここはナチュリストの場所でもあり、リベルタンの場所でもあって、両方あるのが良いと思ったから」と答えたていた。リベルタンという単語自体は私もフランス留学中に聞いたことがある。その時は自由恋愛主義者という意味で使っていて、彼氏彼女がいても他の人とセックスしてOK!という人たちをそう呼んでいた。どうやらミリアムたちが言っているのは、もう少し広い意味を持っていそうで、つまりそれはクロエが口にしていたこととほぼ同じ、フリーセックス・オープンセックスを楽しむ人たちのことだった。

 海中の怪しい一団も、周辺の人もみんなリベルタンだったのだ。ミリアムによれば、ヴィラージュ・ナチュリストのビーチには、エリア分けが割とはっきりされている。ファミリーゾーンと、リベルタンゾーンだ。

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適当な地図だけど、だいたいこんな感じ!!

 私が最初にのほほんと過ごしていたのは、ファミリーゾーンで、歩いて移動したのがリベルタンたちの舞台だったというわけだ。

 明くる日も、リベルタンゾーンの海は忙しそうだった。ただ、やかましさは全くない。その逆だ。これはこのビーチ全体に言えることだが、海にありがちなイェイ系とかキャイキャイ系の音声はほとんど聞こえない。「エヴォリューション」という映画があって、不思議な島に住む少年がある夜家を抜け出して海辺に行ったら、タコのように変態した大人の女性たちが絡み合いながらうねっている様子を発見してしまう・・・というくだりがあるのだけど、私が南仏の太陽の下で彷彿したのはそれだった。湿度は高く、表面的なテンションは低い。

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Evolution 2016年のフランスの映画。これは昼だし服着てるけど、不可思議さに通じるものがある気が・・・。

 だからこそ不気味というか、得体のしれない感が余計に漂う。それはとても大人の世界だ、とも思えた。

 海の中では大の大人が膝まで水に浸かって、懸命に右手を動かしている。ザブッと水を切って歩み寄ると、彼らの表情に特に色はなく、淡々と、という形容がしっくりくる。その塊に加わっていない人たちは、ゆっくりとあてもなく水の中を歩いている。その様を観察しながら歩いていると、男性が一人これまたゆっくりと(というか水の中だからサクサク歩けはしない)近づいてきた。ぐるん、と体の向きを変えて、彼の接近に気づかなかった振りをしたけれど、私だってもうわかっていた。これがリベルタン的ハッテン場だということに。

 

 しかし、リベルンタンカルチャーの洗礼はこれからだった・・・!(続く)

ヌーディスト村日記③裸と私と羞恥心

みんなで脱げば怖くない? 

 前回はちょっと観念的な話をしたので、よりつぶさな報告をしようと思う。

 私がヌーディスト村に来ようと思ったのは、服を着ないという、人間社会の普段の取り決めから大きく外れた状態が、どのように集団的になされているのかということと、人の羞恥心がどんな風に基準値のバーを変えていくか、ということを知りたかったからだ。もちろん、そもそもなぜヌーディスト(もしくはナチュリスト)はヌーディストになるのかという非常に根本的な問いも重要性だ。ただ深く基本的な動機こそ、時に探るのが難しい。というわけで、まずは観察、観察・・・。

 

 ビーチにて晴れて裸になった私は、意外なほど、恥ずかしさをほぼ全く感じなかった。だって、周りの人もみんな裸なんだもん。恥部を晒しているんだもん。どちらかといえば、自分の体を見せる恥じらいよりも、見ず知らずの男性の局部がありありとみえることのほうが、私をたじろがせた。見せる照れと見る照れ。照れには二種類あるとしたら、後者のほうがより感じられた。

 

 地中海の波は穏やかで、浜辺の砂も太陽に熱せられてはいるものの、ふくよかで気持ちがいい。空は抜けるように青くて、時折カモメが飛び、広告をつけた小さな飛行機がパラパラと音を立てて飛んでいく。ビーチボールで遊ぶ人やBBQなどをする人は皆無で、右も左もただただ寝そべって陽光を享受している。

 私たちが最初に陣取った浜辺はとても静かで、これは後から聞いたのだが、ナチュリストビーチは自然にエリア分けされていて、家族連れもいるゾーンと、より性的なリベルタン(自由恋愛主義的な)のゾーンとが、緩やかにしかし明白に分かれているのだという。初日、私たちはそうと知らずに家族連れゾーンの端の方に寝そべっていたので、ヌーディストビーチに対する印象はそこまで激しくはなかった。むしろ、とても大人で穏やかなものだ、と思った。 

 ほかほかに温められた砂の上にビーチにタオルを敷き、寝そべって本を読む。私のすぐ右側には、40代らしき男性が一人で日光浴をしている。前(海側)にはカップル、後ろにもカップルがパラソルを差しデッキチェアに寝っ転がっている。
 

 どんな人たちが来ているのか。見たところ、カップルが一番多く、次に小さい子供がいる家族連れや、カップル複数のグループ、そして男性一人もわりといた。女性一人はもちろん、女性だけのグループはほとんど見なかった。裸を見せ合うことが目的ではないにしろ、ある程度以上に心を許した間柄でないと連れ立っては来ないということか。が、思えばそもそも欧米人がバカンスを過ごすのならカップルや家族が多いのだろう。とはいえ、ティーンネイジャーのいる家族はほとんどいなかった。そして年代でいうと、40代以上が7割という印象だ。若者もいるにはいるが、大学生みたいな人たちはいなくて、30歳前後が多い模様。私はといえば、親しくしている男性に付いて来てもらっていたのだが、もし一人で来ていたらただでさえアジア人で浮くのに、女一人ではとんでもなく浮いて、かつ危険だったろうと思う。(なぜ危険なのかは後ほど・・・。)

 しばらくのんびりしたあと、キラキラと光る海へ入りにいく。水はひんやりとしていて、全身浸かるには勇気がいった。けれど、とてもとても透き通っていて、魚が泳ぐ姿も美しい。けれど海に入っている人は皆、泳ぐでもなく遊ぶでもなく、ただ一人で静かに歩いている。それぞれがバラバラの方向にゆっくり歩き、ぼーっとした目で前を見つめている。それはとても平和で、同時に不思議な光景だった。穏やかすぎで怪しいくらい、人々の様子が凪なのだ。
 海ではしゃぐというアイデアはそこには存在せず、大人たちがただただ光と水の冷たさを全身で受け止めている。そう、裸で。

恥ずかしかった時
 そうして浜辺で過ごしていて否が応でも気づいたのは、下の毛の処理である。みんな、ツルツルなのだ。男も女もみーんな。先に、裸になることは恥ずかしくなかったと書いたが、告白しよう。ヴィラージュ・ナチュリストに来て初めて羞恥心を持ったのは、この毛問題に気づいた時だった。
 波打際を歩いていると、日焼けをせんと海に足を向けて寝そべる女性たちの股が一様に眺められてしまうわけだが、ずらりと並ぶ“世界の起源”は全て毛なしだ。彼ら(彼女たち)の裸は、手入れされた裸だった。もちろん私も日本の常識の範囲内で手入れはしていて、その手入れの到達点が元々彼らと違ったというだけだ。けれど、多数がAという基準を採っていて、私たちが採っている基準Bが、A側の人たちから見たら未達の状態である場合・・・やってない、と思われるのではないか、おかしいと思われるのではないかという、日本では身に覚えのありすぎる類の不安が生まれる。

 あとはどんな時に恥ずかしさを感じたか?
 入ったレストランで、おそらく到着したばかりの家族の、服を着た小さな男の子たちと目が合った時。幼い異性に裸を見られる恥ずかしさは、銭湯で若い母親が男の子を連れて入っている時の気まずさと似ていた。私は悪くない、彼らこそイレギュラーなのに、でもなぜかいたたまれないという、あの感覚。
 それから、カフェで席が隣になったのをきっかけに仲良くなった50代のフランス人カップルの前で服を着ている時。そのカップルは本当に親切で、自分たちが借りている部屋に私たちを招き入れてくれて、シャワーを貸してくれディナーやクラブも一緒に連れていってくれたのだ。詳細は後述するけれど、夜の外出ではきちんと着衣のおしゃれをして出かけるのがヴィラージュでは通例らしく、私たちもそれに習ってシャワー後に洋服を着ることにした。ただ、カップル特に男性の方がいる空間でパンツを履くのなんかが結構恥ずかしくて、裸も見せている間柄なのにこれはなんだ、と自問する。服を脱ぐ時より着る時の方が恥ずかしいというのは滑稽で、ヴィラージュがやはりある意味では鏡の中のあべこべの世界なのだ、と感じた。
 

 裸でいるのは恥ずかしくない。ただ、着装が要素として絡んでくると、どちらも自分のありうる状態ではあるのだが、そこに摩擦が起き恥ずかしさとなって現れてくるのだという気がした。

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ヌーディスト村日記⑤ナチュリストの人々-1

 ヴィラージュ・ナチュリストで出会った・見た人たちの話をしよう。

●木陰でギターを弾くおじさん(裸の吟遊詩人?)

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 散歩をしていたら、ギターの音色が聞こえた。芝生の真ん中、ヤシの木の木陰ですっぽんぽんのおじさん(おじいさん)がギターを抱えていた。曲を奏でているというよりも練習していると言った方が適するような音楽で(失礼)、彼の髪型や、ヤシの木の根元に止められた古ぼけた青い自転車の風情など全てがあいまって、えもいわれぬ哀愁を感じた。でもとてもとても幸せそうな光景でもあった。裸のお尻に、芝生は痛くないだろうか・・・。

 

●「何者」感漂いまくりなクールカップル

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  カフェでランチを食べていたら、美麗な体型の男女が歩いているのを見た。私の仏人友人は「ナチュリストの人たちは体型もどーんとしていて気にしないというイメージ」と言っていて、正直確かにいわゆる均整のとれた体型の人はヴィラージュ・ナリュリストには少なかった。(もちろん、そもそもメディアに登場する女性の体型が完璧すぎるのだとも思う)
 この二人は、髪型こそよく見たら違うのだけど、なんだかジョンとヨーコを思わせるようなコンビ感があり、異様なオーラを放っていた。男性は背中も筋肉や肩甲骨が本当に美しくて、女性も引き締まった無駄のないボディ。タトゥの入り方も只者ではない感じ。
 後日プールで一緒になり、近くで見てみたらヨーコのほうがかなり年上ぽかった。夜にレストランで見かけた時は、ジョンは上裸にスーツのベストのようなものを着て、フェティッシュかつお洒落なスタイルを披露していた。

ヌーディスト村日記④裸のおしゃれ

裸のままではない裸

 ヴィラージュ・ナチュリストに来て意外だったことのベストワン。「みんな意外と服着てるじゃん!」。そこには来たばっかりでこれから脱ぐのという人ももちろんいるのだけど、「すっぽんぽん+α」の人が予想以上に多かった。
 まず、ビーチ以外の場所(ショップとかレストランとか道端とか)では、半分以上の女性がパレオ的な腰巻をしている。例えば、オレンジ色のダイダイ染めのスカーフを巻いて、腰の横で結ぶ女性。ただ、股は見えている。それから、透け感のあるストールをウエストにくるっと巻いている人。ただ、股は透けている。

 別に、絶対に股を見せたくないわけではないらしい。カフェで仲良くなった50代ナチュリストカップルの女性・ミリアムも、ビーチへ歩いている時はパレオを巻き、一度寝そべる準備が揃うと、はらりと結び目を解いて全てを晒すのだった。なんで見せてもいいと思っているのに巻くのだろう、と考えていたのだけど、これに関しては私自身の感覚があながち間違っていない気がした。私も、ビーチ以外ではついつい持って来たストールをくるりんと腰に巻きつけたくなって、それはなぜかというと、まず①なんとなく局部を保護したい気持ち、②カバンなどを持っていて腰やお尻が擦れるのが嫌、③カフェやレストランで座る時に直接だと悪いなという感覚。そこに私の場合は、④毛問題で恥ずかしい、というのが多少くっつく。浜辺なら「全身きれいに日焼けする」という言い訳が立つ気がするが、それ以外の場所ではなんか恥ずかしいという気持ちが出てしまった。 

 

 と、今書いていて気づいたのだけど、これらって、人類が衣服を着始めた理由としてよく挙げられる説と通じる。①と②は身体の保護。③は衛生のため。④は身体のコンプレックスをカバーしたり(※)、社会的に見せることを許されないものを隠すため、ということだろうか、極端に敷衍すれば。

 人が服を着ている理由でもう一つ常に取り上げられるのが、装飾性だろう。装飾は、社会的地位や身分を示すためだったり、儀礼のためだったりする。ヴィラージュ・ナチュリストは服の持つ特にこの側面を意識的に切り捨てている場所なのではと思っていたけれど、おしゃれ心はここでもなお健在だ。それもまた「すっぽんぽん+α」を誘っている。
 たとえば、素っ裸で売店のパレオを物色している女性。わざわざ買うのか。買うなら色柄を選びたいのか。そして、+αが一切ない両親と一緒にいた、ブルーの水着を着た少女。勝手な想像だけど、彼女は裸に抵抗があるのではなくて、単にかわいい水着を着たかったのかもしれない。

 ある夜ミリアムと出かけている時に、出会い系サイトがキャンペーンをしていて、ミリアムがノベルティグッズをゲットしていた。それは、そのサイトのロゴが入ったパレオだった。やはりパレオは、ナチュリストたちの第一の+αなのだろう。

 

 「脱いでない」服じゃなくて、「わざわざ着ている」服を着ている人もたくさんいた。初日に、白いメッシュのミニワンピースの下から胸もあそこも見えてる女性とすれ違って、ひやっと驚いた。実はそういう類のエロ服を売っている店はいくつかあって、オーガンジー風の透け感のある軽やかな記事のチュニックなど、裸感を消さずに着られる女性向けの服が豊富なのだ。夜用と思われるフェティッシュファッションも男女用共に結構ある。

 あと、ビーチで度々見かけたのが、ベリーダンスの飾りのような、でも腰から下部分が無い、チェーンとプレートが組み合わさったアクセサリーだ。腰骨に銀色の光を引っ掛けて、股のすぐ上に小さなプレート飾りが揺れている女性と、何度かすれ違った。

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男性のプライドを飾る

 そして、一番衝撃だったアイテムの話をしようと思う。絵にするのがどうしてもはばかられたので言葉だけで想像して欲しいのだけど、男性が、ペニスの根元に輪っかを嵌めているのだ。
 最初に行ったビーチで、私は右側に寝そべる男性を観察していた。カーキ色の帽子以外は一糸まとわず、微笑すら浮かべながら太陽に体を晒す彼。ふと彼のあそこを見てみたら、根っこの部分にシルバーのブレスレットのようなものが付いていた。なんだ、これは・・・? 彼に話しかけて聞きたかった。でも、誘っているように思われるのも嫌だ。なにせ相手は男一人で来ているのだ。「連れが同じものを欲しいと言っているのだけど」と適当にでっち上げて聞いてみようか? いやいや・・・など悶々としているうちに、彼は浜辺から退散してしまった。
 あぁしまったな、と思っていたのもつかの間、私はそれから何度も同様の“アクセサリー”を目にした。カーキ帽子の彼はシンプルなシルバーリングだったが、スタッズがついたものや革ベルトのようなものをつけている人もいる。ペニスの揺れを抑えるためのもの?と実際的な理由を考えてもみた。ブラジャー的な意義だ。ただ、このリングをつけている男性はみんなどこか通じるものがあった。ちょっと、ドヤ感がある人たちなのだ。自信がありそうというか、先の尖った革靴を履いていそうというか・・・。
 ミリアムの彼氏・リシャールにこの話題を投げかけた時、疑問が一気に氷解した。
 私たちは一緒にビーチに向かって歩いていて、ヴィラージュ・ナチュリストについてのあれこれを話していた。「ねぇ、ずっと気になっているモノがあるんだけど・・・」と私は切り出し、リシャールの優しい目に向かって思い切って聞いた。
「あぁ(笑)、あれって飾りだよね」と言ったのはミリアムで、私が「やっぱりそうなんだ! 揺れを抑えるという実用性もあるのかなとも考えたけど」と答えたら、リシャールが苦笑しながら口を開いた。
 「いや、あれは、実用のためだよ。でも、動かないようにするというよりはむしろ逆で、つまり・・・、常に“立って”いるように見せるためのアイテムなのさ」
 ミリアムと私は同時にえー!と叫んで、爆笑した。あぁ、なんかわかるかも! それに、つけている人たちのキャラクターとも見事に繋がるではないか。

 それから、そのリングを嵌めた男性の例の箇所を見ていたら、やはり確かに、完全に垂れないようになっている。やや持ち上がった体勢だ。ビーチで光っていた謎の輪っかは、まさに、男のプライドと権威を示す装飾であったのだった。

 

 他にも男性器へのおしゃれはあって、先端にピアスやチャームがついているのもたまに見かけた。ピアスで言えば、女性器につけている人もいる。正面から歩いて来ているのを見てわかるくらいだから、上の方の位置ではあるのだろうけど、同性ながらたじろいた。ガルシア・マルケスの小説で、父親によって性器に南京錠をかけられた女の子(その子とセックスを果たすには父親に鍵をもらわなければいけない)がいたのを思い出した・・・。

 

 タトゥも裸のおしゃれと言える。裸になることを想定して入れているかは人それぞれだろうけど、「裸」という「何も表象を身につけていない」と想定される状態で、常に自己表現をしているという点で、タトゥは随一だろう。身体はそこではキャンバスとなり、表象を持つように加工される。タトゥに関しては、着脱できない特徴という意味で、体型や体色といった「裸」が発する情報とも一緒に考えられそうだ。

 

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↑裸にウエストポーチのおじさん、結構いた。リュックを背負うよりは痛くなさそうだし楽だし便利だよね!と思いつつ、この異様な牧歌感につい笑ってしまう・・・。


※ファッションはコンプレックス産業とも言われるけれど、R.B.ヨハンセンという人の『着想の歴史』の序章の文章に、私はポンっと膝を打った。

「全世紀にわたって服装の問題を考察してみて、最も我々の関心をひくのは、洋装師の細部にわたる技巧ではなく、むしろファッションが、カモフラージュとして、神が自らの姿に似せてつくりたもうた男および女の真の姿を隠すための、昔からの手段として徐々に認識されてきていることである。〜中略〜服装は、男と女が、どんなふうに見られたいかを示すだけではない。数多くの疑問に解答するだけでなく、疑問を出した人々を批判をもする。・・・」

 

ヌーディスト村日記③裸と私と羞恥心

みんなで脱げば怖くない? 

 前回はちょっと観念的な話をしたので、よりつぶさな報告をしようと思う。

 そもそもの私がヌーディスト村に来ようと思ったのは、服を着ないという、人間社会の普段の取り決めから大きく外れた状態が、どのように集団的になされているのかということと、人の羞恥心がどんな風に基準値のバーを変えていくか、ということを知りたかったからだ。もちろん、そもそもなぜヌーディスト(もしくはナチュリスト)はヌーディストになるのかという非常に根本的な問いも重要性だ。ただ深く基本的な動機こそ、時に探るのが難しい。というわけで、まずは観察、観察・・・。

 

 ビーチにて晴れて裸になった私は、意外なほど、恥ずかしさはほぼ全く感じなかった。だって、周りの人みんな裸なのだ。恥部を晒しているのだ。どちらかといえば、自分の体を見せる恥じらいよりも、見ず知らずの男性の局部がありありとみえることのほうが、私をたじろがせた。見せる照れと見る照れ。照れには二種類あるとしたら、後者のほうがより感じられた。

 

 地中海の波は穏やかで、浜辺の砂も太陽に熱せられてはいるものの、ふくよかで気持ちがいい。空は抜けるように青くて、時折カモメが飛び、広告をつけた小さな飛行機がパラパラと音を立てて飛んでいく。ビーチボールで遊ぶ人やBBQなどをする人は皆無で、右も左もただただ寝そべって陽光を享受している。私たちが最初に陣取った浜辺はとても静かで、これは後から聞いたのだが、ナチュリストビーチは自然にエリア分けされていて、家族連れもいるゾーンと、より性的なリベルタン(自由恋愛主義的な)のゾーンとが、緩やかにしかし明白に分かれているのだという。初日、私たちはそうと知らずに家族連れゾーンの端の方に寝そべっていたので、ヌーディストビーチに対する印象はそこまで激しくはなかった。むしろ、とても大人で穏やかなものだ、と思った。 

 ほかほかに温められた砂の上にビーチにタオルを敷き、寝そべって本を読む。私のすぐ右側には、40代らしき男性が一人で日光浴をしている。前(海側)にはカップル、後ろにもカップルがパラソルを差しデッキチェアに寝っ転がっている。
 どんな人たちが来ているのか。見たところ、カップルが一番多く、次に小さい子供がいる家族連れや、カップル複数のグループ、そして男性一人もわりといた。女性一人はもちろん、女性だけのグループはほとんど見なかった。裸を見せ合うことが目的ではないにしろ、ある程度以上に心を許した間柄でないと連れ立っては来ないということか。が、思えばそもそも欧米人がバカンスを過ごすのならカップルや家族が多いのだろう。とはいえ、ティーンネイジャーのいる家族はほとんどいなかった。そして年代でいうと、40代以上が7割という印象だ。若者もいるにはいるが、大学生みたいな人たちはいなくて、30歳前後が多い模様。私はといえば、親しくしている男性に付いて来てもらっていたのだが、もし一人で来ていたらただでさえアジア人で浮くのに、女一人ではとんでもなく浮いて、かつ危険だったろうと思う。(なぜ危険なのかは後ほど・・・。)

 しばらくのんびりしたあと、キラキラと光る海へ入りにいく。水はひんやりとしていて、全身浸かるには勇気がいった。ただとてもとても透き通っていて、魚が泳ぐ姿も美しい。けれど海に入っている人は皆、泳ぐでもなく遊ぶでもなく、ただ一人で静かに歩いている。それぞれがバラバラの方向にゆっくり歩き、ぼーっとした目で前を見つめている。それはとても平和で、同時に不思議な光景だった。穏やかすぎで怪しいくらい、人々の様子が凪なのだ。
 海ではしゃぐというアイデアはそこには存在せず、大人たちがただただ光と水の冷たさを全身で受け止めている。そう、裸で。

恥ずかしかった時
 そうして浜辺で過ごしていて否が応でも気づいたのは、下の毛の処理である。みんな、ツルツルなのだ。男も女もみーんな。先に、裸になることは恥ずかしくなかったと書いたが、告白しよう。ヴィラージュ・ナチュリストに来て初めて羞恥心を持ったのは、この毛問題に気づいた時だった。
 波打際を歩いていると、日焼けをせんと海に足を向けて寝そべる女性たちの股が一様に眺められてしまうわけだが、ずらりと並ぶ“世界の起源”は全て毛なしだ。彼ら(彼女たち)の裸は、手入れされた裸だった。もちろん私も日本の常識の範囲内で手入れはしていて、その手入れの到達点が元々彼らと違ったというだけだ。けれど、多数がAという基準を採っていて、私たちが採っている基準Bが、A側の人たちから見たら未達の状態である場合・・・やってない、と思われるのではないか、おかしいと思われるのではないかという、日本では身に覚えのありすぎる類の不安が生まれる。

 あとはどんな時に恥ずかしさを感じたか?
 入ったレストランで、おそらく到着したばかりの家族の、服を着た小さな男の子たちと目が合った時。幼い異性に裸を見られる恥ずかしさは、銭湯で若い母親が男の子を連れて入っている時の気まずさと似ていた。私は悪くない、彼らこそイレギュラーなのに、でもなぜかいたたまれないという、あの感覚。
 それから、カフェで席が隣になったのをきっかけに仲良くなった50代のフランス人カップルの前で服を着ている時。そのカップルは本当に親切で、自分たちが借りている部屋に私たちを招き入れてくれて、シャワーを貸してくれディナーやクラブも一緒に連れていってくれたのだ。詳細は後述するけれど、夜の外出ではきちんと着衣のおしゃれをして出かけるのがヴィラージュでは通例らしく、私たちもそれに習ってシャワー後に洋服を着ることにした。ただ、カップル特に男性の方がいる空間でパンツを履くのなんかが結構恥ずかしくて、裸も見せている間柄なのにこれはなんだ、と自問する。服を脱ぐ時より着る時の方が恥ずかしいというのは滑稽で、ヴィラージュがやはりある意味では鏡の中のあべこべの世界なのだ、と感じた。
 

 裸でいるのは恥ずかしくない。ただ、着装が要素として絡んでくると、どちらも自分のありうる状態ではあるのだが、そこに摩擦が起き恥ずかしさとなって現れてくるのだという気がした。

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ヌーディスト村日記②裸という制服

ここは「村」なのか?

 「ヴィラージュ・ナチュリスト」を直訳すると、「ナチュリスト村」となる。この広大なエリアには、確かにいくつものマンション(もしくは団地)的建物があるし、郵便局もスーパーもレストランも、クラブ(踊るほほう)もある。私もなんとなく、人々が裸で生活する場所というイメージを抱いていた。ただ、やはり予想は予想にすぎなくて、現実はいつも現地でしか手に入らない。「人が裸で生活している」という私のイメージは、半分あたりで、半分絵空事だった。

 

誤解を恐れずに言うと、ヴィラージュ・ナチュリストは「ただの」広いビーチリゾートだ。人々は、裸になるということ以前に、まず美しい海と砂浜でのバカンスを享受している。レストランもスーパーも、ビーチの延長の空間だ。海の家がたくさんあるイメージ。海の家に行くのにわざわざ水着から着替えることは少ない。そんな感覚で、浜辺以外でもヌードが続く、というのが、今の私に一番しっくり来る言い方だ。ビーチに行くにはまだ暑いから、先にカフェでのんびりランチ。ひと泳ぎして部屋に帰るから、その前にスーパーで買い物、という風に。

 この空間の雰囲気には、街や村よりも、大学のキャンパスが近いと思う。似たようなちょっと古い建物がいくつも並び、売店が何種類かあり、きれいな緑が平和に植わって、自転車で移動する人だっている。そこは街よりは小さいけど、なんとなく独特の自治的な空気がある。私がヴィラージュ・ナチュリストを歩いていて思い出したのは、東大の本郷キャンパスや、アメリカの総合大学の敷地だった。、同じような人が集まっている場所特有のなだらかなムードも、ここには感じる。

 

「裸を着用する」権利

 そしてこのキャンパス内では、裸という制服が存在する。学生は裸で、職員は服を着ている(その服も、学風に合った露出度ではある)。ただこの制服はまるで標準服のようで、着用しなくても咎められないし、アレンジも自由なのだ。ヌーディスト村に関する私の中の一つの大きな誤解が、「みんな、ずっと、真っ裸でいる」というものだった。そう、意外とみんな服を着ている!というのが初日の感想だった。一歩足をふみいれたら、服を着ていることが恥ずかしい、普段とあべこべの世界があると思っていたけど、それは結局外界の勝手な期待だ。さっき、ここはビーチの延長だと言ったけれど、本当にそうで、ビーチにいるからといってずっと水着姿でいるとも限らないのと同じだ。パラオのような「裸のおしゃれ」は男女ともに盛んだし、女性は特に、透け感強めではあるが、さらっとしたワンピースを素肌にまとって歩いている人が多い。「一糸まとわぬ」姿は、ビーチではほとんどだけど、それ以外の場所では半分くらいになった気がする。また、みんな帽子やアクセサリー、サングラスを付けている。ここには実用的な意味も大きいだろうけど(とにかく日差しが強い!)。

 裸じゃなくてもいい。でも、裸になれるということは、大きな大きな要素だ。それはまさに、ヌーディストビーチが与えてくれる特権で、私たちはこの制服の着用に関してもそれぞれに完全な自治がある。「裸」を着用する、とは変な言い方だけど、ヌーディストにおけるヌードを考えるなら、裸すら一つの衣装として捉える方がそぐう。つまりそれは、とても意図的に提示されるものであって、程度もアレンジもその人自身に任されている装いの一種類なのだ。
 私たちはしばしば、裸を自然状態とみなしがちで、実際彼らの自称も「ナチュリスト」なのだから、服を脱いでありのままの自分と体で楽しむ、というコンセプトがあることは確かだろう。だけど、それは「生まれたままの姿」とは少し違う。

裸とは何か? ヌーディストたちの「裸のおしゃれ」についても追って報告していきたい。

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素っ裸で自転車に乗るおばさま。股が気になる・・・誰かと共用の自転車じゃないよね、などと心配してしまうけど、この人たちはお股についてもっとフラットに考えているのだろう・・・。